昭和四十五年二月十一日 朝の御理解

X 御神訓一、神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ


 霊験と、あるをと、現れると、霊験が現れる、不思議とは言うまじきものぞと。
いろいろ信心によって、様々な奇跡が起こってくる。これは、あらゆる宗教史の中にそれを見ることがでける。それは、死人が蘇る程しの不思議なおかげ、そうゆう意味にもとれますけれども、<私は、>「信心とは本心の玉を研くものぞや」と、「信心とは日々の改まりが第一ぞ」と、「此の方の信心は病気直しや災難よけの神様ではなし。心直しの神じゃ」と、こうおっしゃる。
 お道の信心では心という事に一番重点が置かれてある。「おかげのあるもなきもわが心」、「今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり」というそのおかげと和賀心というもの、これは自分の心という事、自分の心と、おかげというものが平行していく。そこに根ざしたところの霊験、おかげでなければ、お道の信心で言うおかげとは言えんのです。
 そこで信心して、ようもあんなに変わられたもんだ、というおかげこそが私のお道の信心で言う不思議なおかげの根本になるものだと〔思う〕。心機一転ようもあんなに変わられたもんだと見違える、赤が白になったように白が赤になるように変わってゆけれると。それが本当な事であって、それは、けれども不思議な事ではないと。自分の精進、自分の努力という事もありますけれども、そこに神様の不思議な働き、おかげというものが感じられると。
 私は思うのに、信心をして力を受けるという事はどういう事だろうかと。自分が改まっていく為の精進、自分が研かれていく事の為の精進、その力が私は出来てくるんだと〔思う〕。それが力なんだ。
 もし、その力がなくてです、〔そ〕んなら、財なら財のおかげを頂いた。だから、なる程、おかげを頂いた財によって、様々な御用がでけたり奉仕を致します。けれども、それはね、私は、本当の力じゃないと思う。自分を制するというか、自分を改めていくというか、その改まっていく事の為にぎょうしされる力。言うなら、自分を押さえる力。又は、自分を改めていく力。
 ですから、その力というものは、本気《で》、それに取り組まなければ頂けない。
 「お酒をやめたい」と、いわゆる、禁酒しようと友達二人で話し合った。「よかろう」と。「酒の為に、いっつも失敗しておるから、酒をやめようじゃないか」と二人で誓った。
 そこで甲の人は、とにかく酒屋の前を通ると、酒の匂いがプンプンしてくる。ついフラフラっと、そちらの方へ吸い込まれるように入ってしまう。だから、もう酒屋の前を通るまいというので裏通りの方を通って帰る事にした。
 乙の人はです、よし酒屋の前を通って酒がプンプン匂うてきてもです、そこのところをです、押さえていく修業しよう、稽古をしようとゆう事で、やっぱり今迄通り酒屋の前を通った。
 どちらが本当に禁酒がでけたかというとね、酒屋の前を通った人が本当の禁酒がでけたという話を聞いた事がある。本気でね改めようとする、その改めようとする、その事がですね、違う、根本的に。
 人から誘惑されたら自分が弱いから、誘惑されんように裏道を通ったという人は、誘惑された、又、元に戻った。けれども、酒屋の前を通った、いかに匂いがプンプンしてきてもです、それをこらえる、それを辛抱するというその力がでけた。それは、一番初めの本気で改めよう、本気で止めようという思いが違っておったという訳です。
 私は、自分の力を作っていくという事の上には、そうゆうような事がいるんじゃないかと<思うのです。>
 その御神訓の一つ前に、「食物はみな、人の命のために天地金乃神の造り与えたまうものぞ」と、まあ食物訓ですが、食物がみな、人の命の為に造り与えられておる。命の為にという事は、私共が、言わば、命の為、生きていく事の為という事もありますけれども、成長の為に、それは幼年期から少年期、青年期という当たりを思うたら一番いいと思うんです。食物のおかげでどんどん太ってたくましい体格を作る元は食物である。神様のおかげで背が伸びる、神様のおかげで力が出来る。
 そのようにですね、私共が、食物はとゆうのではなくて、私は、世の中の、言わば、難儀と感ずる難儀は、みな人の命の為に、言うなら心の為に、天地の神が造り与え給うものぞという事になるんです。
 私は、お道の信心は、もう、そう頂くべきだと、こう思うのです。だからこそ、「難を べ」とか、「難あってみかげ」とかと言うておられます。
 だから、難を越しておかげを頂いたと言うおかげは、本当の霊験ではなくてです、難のたんびに改まってゆけるという事。いわゆる、自分の心が改まっていく、その改まったおかげに伴うおかげでなからなければ本当な力でも、本当なものでもないと思うのです。
 食物はみな人の命の為に天地金乃神が造り与え給うものであるようにです、私共が難儀と思う難儀と感じる事はです、全て心に力を与えて下さろうとする神様の与え給うものぞと、天地金乃神の造り与え給うものぞと。それを有り難く頂くと。
 それを、私は有り難く頂くという事はね、この頃も、平田さんがみえた時にですね、嘉郎さんとの対話の時に話しておられますように、「難儀な事は難儀なんだ」と言うておられますが、やっぱりそうなんです。
 けれどもね、けれども、難儀のおかげで改まる事が出来る、難儀のおかげで精進する事が出来るから、その難儀のおかげで力を受ける事が分かるから、私は、その向こうに 有り難い、苦しい、難儀は苦しい、苦しいけれども、有り難いという事になるんだと、こう思うです。
 ですから、只、そこんところをですね、難儀を只、難儀のままで苦しい苦しいで通って次に頂けておるおかげというものが、もし現れてくるとするなら、又現れたとするなら、それは実体のないおかげです。信心の実体というものが成長していないのに、おかげだけ成長しておる、影のようなもんです。だから、それはもろい。それはだから本当のおかげじゃない。
 私は、今日この「神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ」という事を、「信心してみかげの無き時は、これぞ不思議なる事ぞ」と、次にありますようにですね、信心してそういう、いわゆるおかげですねえ、まあ奇跡的なおかげとでも申しましょうか、金光様の御信心はですね、そういう奇跡と思われる位に、自分自身の心がね、改められていくと、それは確かに奇を呼ぶです。
 例えば、人相が変わる程しのね、いつも私が例を申しますように、顔の一部にあったあざ、このあざは大変悪いあざだと。改まる事によって、そのあざが一年の間に、取れてしもうたと。奇跡でしょうが。それは心が改まる事が出来たから、人相が変わった。心が改まる事が出来たから、顔にあった、そのあざが取れたという程しの、私は、おかげを金光様の〔御〕信心では、おかげと言うのだと。
 「病気直しや災難よけの神じゃない、心直しの神じゃ」と、こうおっしゃるでしょう。信心とはおかげを頂くものぞやじゃなくて、「信心とは本心の玉と研くものぞや」であり、「日々の改まりが第一」と、おっしゃる信心においておやであります。
 そこで、例えば「信心してみかげのあるを不思議とはいうまじきものぞ」をです。ねえ、又は、「食物はみな人の命の為に」という事を申しますようにです、食物が人の命の為に天地の神が造り与えられますようにです、難儀というものは、私共の心の為により健全な、より立派な心を与えて下さる事の為にその難儀があるのだと、という頂き方が金光教的でしょうが。和賀心、心を中心、もう心一点張りですからね、金光様の御信心は。
 それをです、それを心の方は動かないままに、只、一生懸命拝んだ、一生懸命願うた事によっておかげを頂というなら、何様でもかに様でも理屈は同じ事じゃないですか。そして、おかげを受けた、おかげを受けた、と言うておるおかげだからです。
 ねえ、昨日の御理解でしたかね、子にも孫にも伝わっていかない。いわゆる教祖様が、「此の方の一代仏を嫌う」と、こう仰せられたそうですがね、一代ぎりになって、いわゆる教祖様に嫌われるような信心をしておったという事になるのです、ねえ。
 だから、もう本当に金光様の信心を本気でですね、もうこれでよいという事はないです。
 限りなく改まってゆく、その改まってゆく楽しみというのは、改まってゆく、例えば、力をね、受ける。それを本気でそれを願う。酒をやめようという人がです、ねえ、かえって酒屋の前を通って自分を試そうという位な、私は真正面から取り組んだ信心、そのところが私は大事じゃないかと、こう思います。
 自分乍ら、よおう自分乍ら、こんなに変わられたと思う位述懐してみて、自分というものを振り返ってみてです、これは私自身も思います。恐らく、これは一生持ち続けるであろうと思われておったような心がです、もう影もないように自分でなくなっておる事に驚きます。
 私共の場合は倒れ転びで、すっきりした事も出来ないのですけれども、やはり長年の間におかげを受けて、まあだ、これからとても限りがない。教祖生神金光大神という大変なお手本があり、ねえ、近くには、例えば三代金光様のあの御信心振りというものを、実際に見聞きしてきております私共にとってはです、そういう手本がそばにある。それを目指して改まってゆく訳です。
 「此の方ばかりが生神ではない、皆んなもそのようなおかげ受けられる」と。まあ、いつもの御理解頂くようにですね、その生神が目指しなのですから、今のままでよかろうはずがない。
 だから、そこんところを考えずしてです、おかげの夢を見るという事は、これは本当に、例えよし、おかげを受けるかも知れません。けれども、それは一代仏だと、私は思うですね。
 実体そのものが育ってないもん。ですから私共がですね、本当に神様にお縋りしなければならないという一つの難儀です、だから難儀の為に私共がですね、それを自分の心に与えて下さる食物であるとして頂く。
 本当に例えば、あれを見、これを聞き、例えば自分の家庭の中にです、本当に難儀だなあと、こう思う。だから、おかげ頂きたいと思う。思うけれどもです、それを自分の心を改めていこうとする、言わば心の食物にしようとしない。そして、どうぞお願い致します、お願い致しますと言うて、お願いをするからおかげは頂いても、本当のおかげじゃない。ここで言う霊験という事じゃない。
 ああ本当に、自分が一寸改まろうという気に本気になったら、もう神様がこのようなおかげを見して下さったというおかげでなからなければ金光様の御信心には悖る。
 本気で改まらして下さい、本気で改まりますと思うた途端にです、神様が、このような不思議なおかげを見して下さるというおかげでなからなければ本当なこちゃない。
 一生懸命参ったから、一生懸命拝んだからおかげが現れた。ところがそういう例はです、これは、まあ、私共が周囲に知っておる様々な信心がありますが、そういう信心と、それなら五十歩百歩じゃないかと。一生懸命、お百度参りさせて頂いたら不思議なおかげ頂けたというだけであった。はあ、決して金光様の事はいらん。わざわざ合楽に通って来る事はいらん、ねえ。
 死人が蘇る程しの、めくらが目があいた、チンバが立ったというようなおかげならです、昔から沢山頂いてきとるです。あらゆる宗教で、あらゆる信心で。
 だから、教祖様がですね、そういうおかげを不思議とは言うまじきものぞというふうにおしゃっておられるのじゃない。それもある。けれども、それは、金光教、言わば、独特のおかげじゃないという事。どうでもこうでも、やっぱり改まらしてもらう。
 信心して力を得たというのは、ねえ、とてもこういう改まりがでけそうにないと思うておった者がです、難儀を感じたところからです、本気でそれに取り組んで改まる事が出来た。その時に初めて、私は改まる力が信心の力だと、こう思いますね。
 してみると、これは私共の信心は根底から、ひとつ金光教的にならなければいけない事を感じます。
 力が欲しい力が欲しい。力なしには人も助けられん。人を助ける力なんて自分を助ける力がなくて、人を助ける力があるはずがない。人に教えるというて、自分自身がまず教えられて、教えなければならない。
 私は今日、「神信心してみかげのあるを不思議とはいうまじきものぞ」という、この御神訓を頂かしてもろうて、まあ、只、これを不思議な御利益と、不思議なおかげという事だけに今迄は、感じておりましたから、そのように皆さんに聞いてもらいましたが、それなら金光様の信心じゃなくてもいいじゃないかと私は思うたんですよ、ね。
 だから、私は次のヒントを頂きたいと思うてから、又、神様に頂かしてもらいましたら、立教神伝の初めのところ「この弊切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ」ということろを頂きました。「この弊切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ」と。それで、ただ今の御理解を頂いたんです。
 「この弊切り境に」ち言うなら、この難儀を境に皆がこれだけはと、子供の姿を見、自分の周囲の姿を見、家庭の中に起きておる様々な難儀という難儀の様相を見るにつけてです、だから本当にそれが心が暗くなったり、心配になったり、ねえ、それが悩みの種であるならばです、その悩みの種を境にです、ね、肥灰さしとめるからという事はね、その難儀を境に改まってくれよという事。
 肥灰さしとめるという事はです、肥灰という事は、言うならば汚いもの。自分の心の中にある、言うなら汚いもの、それをさしとめるからその分に承知してくれ、と神様はそういう。もし神様が言葉を持って下さるならば、その難儀の内容の中には、そういう切実心があるのです。
 そういう切実なものが、この難儀を境に肥灰をさしとめるぞと、その悩みの姿というものを神様御覧になってです、神様はそういうふうに、私は、お言葉を下さるのじゃないかと思います。
 「この弊切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ」と。難儀の根絶なんです、ねえ。
 難儀の中にはねえ、そういう、言わば、神の悲願というか、神の声がね、ひそんでおると分からないけません。
 それをです、「はい」と受けられる信心。ねえ、それはなる程、きつうもある、苦しゅうもある。けれども、やはり、それに立ち向かわなけえれば、いわゆる不思議とは言うまじきものぞと言われる程しのおかげにはなってこない。又、そういうおかげであってこそです、子供にも孫にもです、ねえ、信心の、いわゆる、信心の道をという事は、金光様の御信心の道をです、末の末まで教え伝える事が出来るのです。
 はあ、おじいさんの時には、もうこういうおかげを頂いた。めくらが目があいた、ちんばが立ったといったようなおかげをです、いかに子供に孫に言い伝えたところで、その信心は伝わらん。
 ひとつ皆さん、私も含めて皆さん一緒に本気でひとつ改まる事に精進しましょうじゃないですか。その改まる事によって力を得られるもんだという事。
 自分の心の中からです、例えばアザが取れる程しの、又は、人相が変わる程しのです、改まりによってです、おかげを受けた時に、食物は人の命の為に与えられてあるんだなという事が分かるように、難儀はなる程、私共の心をです、正して下さる事の為にあるんだなあ、力を与えて下さる事の為にあるんだなあという事が分かります。
 だから、そのような大変な事に取り組ませて頂くのであるからです、信心してみかげのあるを不思議とは、信心してみかげのなき時は是れぞ不思議なる事ぞという事になってくるのです。
 本当に、そうでしょうが。これだけの改まりが出来たのに、もしおかげがないとするならね、もうそれこそいよいよ不思議でたまらんという事なんです。おかげの頂けん方が不思議でたまらん。
 昨日、久保山さんと佐田さん達がお礼に出てみえておりましたので、裏で笑い話に話した事です。
 「私は、どげん考えたっちゃ不思議でたまらん事がある」ち(笑)、私が言うんです。「何ですか」ち。「何がそげん不思議な事か」ち。「もう合楽でのね、皆さんの姿を見とったらね、もうこの人はおかげを受けられんはずはないと、私はいつも思うんですよ」ち。やあ、変わられたなあ、あっちはと思う位に変わっておられるからです、それでそのままうちへ帰ったらおかげの頂けんはずはないのに、おかげが受けられんのは不思議でたまらん。【  】
 ところが、うちへ帰ったら二重人格的なものがある。教会でとうちでとは、もう、うらはらな自分になってしまっておる。なるほど、これじゃですね。
 だから、本当におかげ受けられんのは不思議だと、これ程しの事に変わり、これ程しに改まらして頂いておるのに、もしおかげが受けられんとするなら、それこそ不思議なる事ぞと。という程しにですね、的確なおかげが現れてこなければ嘘なんです。
 ですから、おかげが現れて来ないとするなら、ねえ、こりゃ自分のあり方はです、言わば、教会での自分、自分の仕事の現場に於いてのです、あり方がですね、お広前でと違う事(笑)をまず悟らしてもろうて、ねえ、これは不思議な事じゃない、当たり前だなと気付かせて頂かなければならんと思います。
 「神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ」と。神信心して、お道の信心でいう神信心とは、いわゆるどういう事かという事を思うたら分かるでしょう。普通一般の神信心とは違う。みかげ現れ、霊験が現れてくる。それは不思議とは言うまじきものぞと。
 もう当たり前、そこんところを、まあ言うならば、私が願わんでも頼まんでもと、こう言う訳なんです。
 どうぞ、まあ言うなら今日を境にですね、お互いがかかえておるその難儀というものの内容を本当に思うてみて、その難儀の内容は神様のそれこそ切なる迄に私共に呼び掛けて下さる、「この弊切り境に肥灰さしとめるぞ」と、おっしゃておられると分からしてもろうてね、私共が、「その分に承知してくれ」とおっしゃる、本当にそうだなあと分からして頂くという事。
 「この弊切り境に肥灰さしとめるから、その分に承知してくれ」と。これは勿論、立教神伝という意味ではなくて、只、そこんところを間違えんようにして下さいね。でないと内容は大分違う訳ですから、ねえ。
 私共に、もう本当に、この難儀を境に、ねえ、汚い事は、もうやめてくれよと、ねえ、その難儀の内容にそういう神様のお声がひそんでおる事をです、ねえ、その分に承知さしてもろうて、今日からは、そういうあり方に本気でならして頂こうという訳なんですね。どうぞ。